11月中旬にちょっとアメリカはロサンゼルスに行ってきたのですが、それらソフトや紙媒体の衰退というものを実感して帰国しました。
ダウンタウンの中心街の新聞BOXでも売れ残った新聞が目立つし、マガジンスタンドなどはほとんど見かけませんでした。
お目当ての新聞をふと買おうと思っても、売っているところを真剣に探さなくてはいけませんでした。
路上の新聞BOXなんかも、メンテナンスが行きとどいていないのか、コインを入れたのに開かないものや、すでに扉が破損しているものも時々見られました。
新聞・マガジン系を売っている店については、郊外のスーパーに行くと別なのでしょうが、そもそも雑誌の種類自体が随分減っているとのことで、マガジンラックもそんなに充実していないのが現状のようです。
第一、アメリカ第2の都市なのに、本屋が少なくて困りました。
あっても、ダウンタウンの本屋はとても小さく、置いている書籍が少ない。
地元の人に聞くと、即答でハリウッドに行け、と言われました。
CDやDVDを買えるところはないか、と尋ねると、これもやはりハリウッドへ行け、と言われます。
大きいところで、ダウンタウンから一番近いのがハリウッドの店だというのです。
そう言えば、行きの飛行機で両隣だったアメリカ人は、どちらの人もMP3プレイヤー(iPod各種)を3つぐらい持っていました。
私の左隣にいた女性は、CDなんか買わないわ、と当たり前のような顔で言いました。
そして、iPodを持っていない私に目を丸くし、持っているものの中からシャッフルを一つ貸してくれました。
彼女たちは音楽も映像も全てダウンロードして持ち歩くのだそうです。
最近の日本の若者の多くもそうなりつつありますよね。時代の流れですね。
私はauのRISMOをMP3プレイヤー代わりに愛用していますが、携帯電話なので飛行機の中では聴くことができず、しまったなあと思っていたところでした。
彼女の快い計らいに感謝しながら、際限なく保存されている最新のAMERICAN POPSを楽しみました。
ちなみに、私の場合携帯電話が音楽プレイヤーなんだ、というのは両隣のアメリカ人にはあんまり分かってもらえず、聞き流されてしまいました。
携帯をそんな風に使うことは、彼女たちにとってあんまり一般的じゃないのかな、と感じました。
治安の違いも関係しているのでしょうか。
今年のニューズウィーク11月18日版では、「新聞は死ぬ運命にある」とあり、日本で感じるよりもシビアなアメリカの出版・プレス業界の現状について書かれていて、先の希望のなさにやや衝撃を受けました。
今後方向転換し、何らかの形でライターとしてやっていけたらと思う私にとって、本と雑誌と新聞の未来についての特集記事はどれも暗く重くシビアなものでした。
一方で、1か月前まで大阪のとあるモノカキ学校に通っていたのですが、そこで雑誌の編集長クラスの先生方から聞かされる内容では、振るわない現実ではありながらも希望的な話がちらほら。
簡単にまとめると、以下のような話でした。
雑誌は次々に廃刊し、大手でさえも人員を削減し、コストを減らし、苦しい中を戦っている。
netの上でタダでタイムリーな情報が手に入る時代では、雑誌という媒体は比較的情報がフレッシュではない上にコストや労力もかかる。
新聞についても同じであるが、必ずしも記者が扱う話題について専門性が高いわけではないので、全般的なニュースを扱おうとする傾向のあまりに、どれも浅く広い情報提供に陥りがちであり、問題
は雑誌より深刻である。
それぞれのカテゴリーに詳しい人が書くブログやtwitterを参照する方が、より詳細にその話題について知ることができるためである。
紙媒体としての雑誌のニーズが薄れてきたのは、必然的であり、予想できることでもあった。
しかし、プライドのある雑誌や独自のスタイルが出来上がっている雑誌では、それを支持する読者に応えるためにコストがかかってもその路線を貫いてきた。
そしてここまでやってこれたのは、そのブランドの価値に対する求めや、雑誌への信頼があった結果である。
時代に応じて、フリーペーパーやクーポン式に転換するなど形式を変えていくことで生き残りを図る雑誌もあるが、その雑誌が積み上げてきた実績と信頼性を維持した制作をしていかなければ、いずれはまた(すでに)飽和状態になって衰退するだろう。
netは出版・新聞にとって脅威であるが、敵ではない。
うまく2者を連動させていけばいいのではないか。
PCの画面はやはり文字を読むのには適さない。
持ち運べて、手軽であり、場所を選ばない紙媒体へのニーズは、今後もなくならないはずである。
雑誌(編集チーム)への信頼、実績、ブランドで記事を読みたがる読者がなくなることはないだろう。
書籍については部数を伸ばしている現状もある(日本国内の話)。
ある特定の筆者がその人の専門性と視点でまとめた本に対してのニーズは今後もなくなることはないだろう。
読者は、視点・立ち位置が一定した情報を求めている(net上では不特定の書き込み、繰り返しの更新があり、一定していないという観点)。
それに応える限り、雑誌・書籍の生き残る道はある。
不況は逆にチャンスだと思えばいい。衰退して淘汰されている中で何らかの形で抜きんでればいいのではないか。
確かに、おっしゃる通りの考え方もできます。編集長たちの意見となれば、説得力もありました。
希望的な意味もきっとたくさん含ませてのご意見だったのだとも思いますが・・・。
しかし、実際アメリカでは紙媒体は衰退の一途。
デジタルのブックリーダーがあれば、ペーパーバックも買う必要がなくなり、最新ニュースや情報はtwitterとブログで得ることができる。
新聞は「死ぬ運命」。雑誌もどんどん不要になり、経営が行き詰って廃刊している事例があとを絶たないといいます。
アメリカの状況を少し実感してきて、私の考え方は変わりました。
紙媒体のみでの生き残りを信じて今から戦うのは、間違いだと思います。
そこに希望も持ちたいですが、そもそも本屋自体が今後減っていくのではないかと思います。
本の流通自体、これ以上の発展があるようには感じられなくなりました。
netとうまく連動させる、のではなく、netを主体においてプライドのある情報を発信してくことが今後必要なのではないでしょうか。
net上にはたくさんの情報が氾濫し、リテラシーや情報の選択にも困難さが出てきている状況ですが、だからこそ信頼のおける情報発信が求められると思います。
多くの人が記事を編集でき、情報がどんどん上書きされ更新され続ける方式と(wiki的な方法)、ある時点・ある視点で書かれた記事をそのまま残して蓄積し、アーカイブ化する方式の二つが同時に必要であると思います。
後者がなぜ必要なのかというと、その時の時代背景や社会情勢を踏まえて特定の著者が記名で意見や考えをまとめたものが、歴史となり、その時代の記録となり、次の時代の道しるべになってきたと思うからです。次の変化を産むための礎として、専門性のある人が記名で記事を書き、上書きされることなくアーカイブされることはデジタル化された時代でも必要だと思います。
読者は常に即物的な、最新の記事ばかりを求めているものではないからです。
netで得る情報は無料、というのが通念として無意識にありますが、これについても時代の変化に合わせて変えていく必要があると思います。
今まで補助的であったnetの情報が、これからはますます主体になっていくことは目に見えています。
これまではお金を払って雑誌や新聞などの情報を買っていました。
だったら、netで得る情報にも料金が発生すべきではないかと思います。
netでの広告収入で製作費を賄うのはかなり厳しいという話も聞きました。
だったら、プライドをもって制作された情報を読者が得るには、コストがかかって妥当です。
少しずつですが、国外のプレス系の会社では試験的にコストを求める情報提供を開始しているそうです。
無料が当たり前、という考えをどう刷新していくか、ということが、これからのnet主体の情報社会が抱える大きな課題になるのではないかと思います。
以上、まじめなお話でした。
これからについて、憂うことは多いです。
深刻な不況ながらも、上を向いて歩きたいものですね。
ほいじゃあ☆